もう先月になりますけど・・・
所用で遠方に伺うことがありまして、その時に手土産で持参したのが円山菓寮のかりんとうでした。
”円山”の名前が示す通り、香住の大乗寺(応挙寺)の駐車場内にあります。
円山応挙の襖絵のある大乗寺
ぜひ一度はご覧いただきたいです♪
おはようございます!民宿美味し宿かどやのガクです。
一昨日、久しぶりに香美町立ジオパークと海の文化館へ行ってきました。以前よりも展示が変わっていたところもありました。
これまでは理系っぽい展示ばかりだったのですが、文系の解説も増えており。
ちょうど館長がいらして面白い話を色々とお聞きできたので紹介したいと思います。
「日本の幽霊は足がない」を広めたのは円山応挙?
突然ですが、幽霊に足がないのは日本だけってご存知ですか?その起源となったのが「足のない幽霊画」。最初に書いたのが円山応挙と言われています。
なぜ、足が描かれていないのか?一般的に言われているのはお香の煙で見えなくなっているだけ。反魂香(はんごんこう)という、煙の中に死者の姿が現れるというお香によって足が見えなくなっている様子が描かれている幽霊画から来ています。
その代名詞となっている画がこちら
↓↓↓
museum.city.fukuoka.jpより
実際、応挙の幽霊画が所蔵されている弘前市久渡寺の木箱に「反魂香之図 洛陽 丸山主水筆」と書かれています。
色々調べてみると
幽霊画を自筆で書いたのは円山応挙が最初。
それまでにも既に浄瑠璃本の挿絵などに版画として足のない幽霊画は存在したようです。
なので、
「幽霊=足がない」
というのを円山応挙が考え出したというわけではなさそうです。
それを広めた、メジャーにした人と言えるかもしれません。
特に彼の画はお弟子さんが書いたものも含め贋作が広く出回っており、幽霊画もそうだったようです。
では、どうやって彼の知名度とともに広まったのか。
まずは国学者藤井高尚の随筆『松の落葉』(1829)にて下記の記述をされていたから。
今人幽霊といへるものは、足なきもののように思へり。
しかるに百年以前描くところの冤魂には、ことごとく足あり。
さてこの足なき幽霊は、いつ頃より出来しといへるに、こはいと近く、円山主水(応挙)よりおこりしなり。
円山主水、ふと冤鬼のかきかたに工夫をつけて画き出でしより、一時に海内にひろまれり。
「広めたのは円山応挙」。応挙が生きた時代は、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期です。
没後30年余りでこのように取り上げられていたようです。
そして、確固たる知名度を作り出したのが明治時代になってから落語「応挙の幽霊」が広まったことによるものでしょうか。
勘違いしてはいけないのは「幽霊に足がない」を考えたのではなく、広めた存在であったということです。「影響力」があったんですね。
円山応挙は元々京都府亀岡市の出身。その代表作が香住のお寺、大乗寺にあることから私たちには馴染みの深い画家なのですが、全国的に見ると「幽霊画の応挙」「足のない幽霊画を最初に描いた画家」ということの方が有名なんですね。
そんな雑学も知りつつ、ぜひ香住に来たら大乗寺に行ってみてくださいね。
大乗寺
兵庫県美方郡 香美町香住区森860
TEL: 0796-36-0602
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TODAY’S PHOTO
薄っすら雪景色の佐津集落
兵庫県北部、本日まで雪マークが出ています
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香住/佐津/柴山 民宿美味し宿かどや
Tel:0796-38-0113
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